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Papen's Piling

自分が興味を持った事柄に関するまとめ TwitterID:Papen_GaW

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『シン・ゴジラ』、それを観た自分の感想

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 『シン・ゴジラ』、これを観る前の自分の心理状態、映画の要素、そしてこの映画はそもそも何であるかを、もう少ししっかりとした形でまとめた記事となります。

 どうでもいいですが、筆者は『ゴジラシリーズ』は粗方視聴しています。

日本における『ゴジラ』という企画の復活を知って

 ギャレス・エドワーズ監督による『GODZILLA ゴジラ』(2014)は筆者から見ると若干ゴジラの出番が少ないと感じましたが、「自然界の一生物としてのゴジラ」を楽しめました。もう一つの怪獣、MUTOの脅威としてたびたび描かれる生殖活動もそれを印象付けるのに大きく役立っていたと思います。その後、同監督が2018年にその映画の続編、2020年に『GODZILLA vs KONG』を世に出すことを知りました。制作側が熱意を持ってゴジラ映画、もっと広げると怪獣映画に力を注ぐのがはっきりしているのであれば別に構わないですし、それで良いのだとぼんやりとそう思っていました。

 自分にとって『ゴジラ』は昔の思い出であり、それ以上でもそれ以下でもないものです。既に『ゴジラ FINAL WARS』で日本のゴジラ映画は制作を終了していましたから、積極的に追うものではありません。結果として、今回の『シン・ゴジラ』も『GODZILLA ゴジラ』と同じように情報を碌に追っていませんでした。映画が公開されたらなるべく早く観に行こう、ぐらいの気持ちでした。

『シン・ゴジラ』を観に行く前に覚悟していたこと

 観に行く前に一つだけ覚悟していたことがありました。それはゴジラの改変具合でもなければ、作品の出来でもありません。役者を識別できるかどうかということです。自分は殆ど映画やドラマを観ておらず、俳優を全然知りません。人生の大半はゲームで占められている者ですので328人という膨大なキャストでゴジラを迎え撃つという構図を知った時、自分の鍛えられていない目では認識に苦労するかもしれないと覚悟していました。それがどうだったか、後で解説したいと思います。

要素

私がこの映画を観て、どういう要素があると思ったか列挙したいと思います。

現代に合ったゴジラ

  『初代』が下敷きになっていないため、ゴジラは大幅に変更されています。ゴジラは映画の中で何度も進化していきますし、口からだけでなくヒレからも熱線を細くして放ってきます。このような設定は前者は即座に超法規的措置が採択できないという現在の政治情勢、後者は空軍が影響を及ぼしやすい現在の軍事情勢とリンクしており、映画、またはその映画の舞台である現代に合わせてゴジラが変わっているのが分かります。

 ただし、変更一辺倒ではなく日本の「ゴジラらしさ」ということで度々言及される"静の恐怖"から外れないようになっています。特にヒレから放つ熱線はそのような観点から生まれたように思えます。動かさずとも立体的な戦闘が出来ますし。

「現実VS虚構」とするための現実の整備

 『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「ニッポン対ゴジラ」、現実と虚構の勝負となります。つまり現実をきっちり映画内で表現しなければ意味がありません。とはいえ、この映画は現実の日本にゴジラが来たらどうする?という純粋なシミュレーションではありません(皇族の避難や、野党との攻防は削られていますから)。あくまでも娯楽ですので説得力を持たせる程度です。結果として、この政府は現実の日本と類似した、しかしある程度は動きやすいように改変された組織として動き、似たプロセスをもって巨大不明生物への対処をします。

 これは軍事面でも変わりません。例えば最初のヘリコプター隊の出動では機関砲しか持っておらずヘルファイア対戦車ミサイルなどは装備していません。いきなり強力な武装は使えないということでしょう。実際、ミサイル発射の許可はタバ作戦開始後になって、とられています。

 タバ作戦では遂に陸上戦力の10式戦車、16式機動戦闘車、99式自走砲、MLRS、航空戦力のF-2などが投入されますが、攻撃後は残弾なしということで無力化し、以降は一切登場しません。無駄だと分かっている場合投入しないという現実的な判断がなされていると筆者は考えました。また、細かいことですが車載の重機関銃を利用しなかった所も現実味があって良いと思いました。あのデカブツに効かないのは最初から分かっているのですから撃たないのが賢明です(と言っても『ゴジラ』(1954)では防衛隊が重機関銃を撃ってましたが)。

 アメリカもいきなり核を投入することはせず、戦略爆撃機 B-2の地中貫通爆弾*1の投下後からそのようなプランへと変更します。実際に自衛隊がどう行動をとるか?米軍が、そして米国政府がどのようなプランをとるか?についてある程度は納得できる範疇に収まっているのです。深く考えれば疑問符が付くかも知れませんが、少なくとも視聴している間に大多数の人が「それっておかしくない?」と思わせる不自然な描写ではないでしょう。

ターニングポイントとなるゴジラの熱線

 作品である以上、どこかで変化を加える必要がありますが、その変わり目はゴジラのメインとも言える「放射熱線」です。ゴジラの口から、ヒレから放たれる熱線が東京を焼き尽くし、総理大臣など現閣僚の大半が死亡、B-2は最終的に3機喪失するという結果をもたらします。この熱線が『シン・ゴジラ』での初の放射熱線となりますが、これによって日本(正確にはゴジラ対策チーム)とアメリカなど他国のプランが変更されます

 フィクション性の強い「放射熱線」の登場後、ここからは日本、米国、国連のプランも「虚構」の要素が強くなっていきます。巨大不明生物対策チームでは、現閣僚が死亡したことでチームの長である矢口が特命大臣(正確には覚えてません)となったことで規模が拡大、適用できる権限も広くなったことでゴジラを機能不全に追いやるに至るまでの必要な物資を獲得できるようになります。理論面に絞られた研究が放射熱線の間接的な影響により、行動に移せるようになったのです。

 また、米国もB-2と、そこから放たれる大型地中貫通爆弾が無力化されたことで「水爆」を用いたゴジラ抹殺計画を提案するに至ります。筆者は「巨大不明生物が出たら核を投下するというアメリカの思考」はいくらなんでも乱暴すぎると考えていたため、このように段階を設けたことについては大いに納得しました(それを日本人の監督が達成するとは思っていませんでしたが)。

 視聴する側から見ても、ゴジラが熱線を吐くことで東京が焼き尽くされる光景というのは「ゴジラ憎し」という感情を想起させるようになっています。筆者もゴジラの映画はいくつも見ていますので「ゴジラは映画の主役」と考えるのをどうしても避けられません。ですが、あの光景で今まで持っていたゴジラに対する感情はリセットされ、「ゴジラは災厄」と強く認識できるようになりました。結果として、米国(や国連)のプランにも説得性が生まれたと感じました。

己の仕事に最善を尽くす

  この映画の登場人物は己の仕事に力を尽くします。人は与えられた役割に必ずしも全力を注ぐ訳ではありません(役割距離と言います)のでシミュレーションではあり得ない想定です(私がこの映画はシミュレーションではないと思ったもう一つの理由でもあります)。自衛隊の戦闘計画は誰かから欠陥を指示されませんし、ヤシオリ計画も現場の誰もが口一つ挟まず黙々と進行していきます。自分の役割に疑問を持たず、他者の役割に口出しをしないという非現実的な想定が『シン・ゴジラ』の特徴であると言えます。良く言えば皆で協力しており、悪く言えば一人一人が没個性の歯車と化しています。国民は分かりませんが、少なくとも政治家と官僚は蒲田上陸前の時点で巨大不明生物の駆除に全力を尽くすようになっていますので、この辺りもシミュレーションらしくない点です。

米国の立ち位置

 米国は作中では国としての関わりを維持する形をとっています。また、交渉においては日本より上手だということを表現しています。例えば、カヨコ・アン・パタースンは劇中での初登場時ではパーティ用の服装で姿を表しますが、これは「米国もGODZILLAの出現に慌てて、急遽カヨコを日本に送らせた」という事情もあると筆者は考えました。今すぐ日本に送らせても話が通じる、しかしこちらの弱みを握らせたくはない、2つの要求に応えられるのがカヨコであると。実際、カヨコの序盤の演技は高圧的であり、悪く言えば舐めた態度をとります。巨災対との初会合でも書類を机に滑らせて送るなどいい加減なやり方です。

 水爆投下のカウントダウンでも、アメリカ政府の関係者内における会話では「国連にとっては長すぎるが、日本にとっては短すぎる」と同情的な態度はとりますが、実際の交渉ではカウントダウン引き延ばしには応じない態度を取り続けます。公私の区別がはっきりとされているのです。

Scrap&Build

  後にゴジラと呼称される巨大不明生物の襲撃に対して効果的な対策ができない政府、その非能率的なシステムは奇しくも内閣総理大臣など数多くの閣僚の死亡後、大きく変わっていき、序盤でゴジラに関するデータをできる限り収集し、対策プランを考えてきたチームが規模を拡大させて主役となります。最終盤に赤坂内閣官房長官代理は「日本はスクラップ&ビルドでのし上がってきた」と言いますが、この作品全体がそのようなテーマで動いていると思いました。

 もっと言ってしまえば、日本での製作が困難になった『ゴジラシリーズ』という"スクラップ"から生み出されたという、この映画の制作過程自体もこのテーマに沿っているのではないかと。

個性的な役者

 冒頭で役者の区別ができるか不安に思っていましたが、実際はテロップと役者の特徴的な顔により混乱することなく識別が出来ました。しかし不思議なのは「似た顔」が1人もいなかったということです。しかも非現実的ではなく、その役職をやりそうな顔が配置されていたと感じました。このような、目的に合わせてキャラクターの外見を改変させていくという手法は、俳優に詳しくない自分からすると嬉しいですが、役者の個性が壊されるので俳優にとっては嬉しくないのではと思いました。総監督の庵野秀明はどちらかと言えばアニメーションで名を馳せる方ですので、アニメーション制作で得た手法を活かしたのではないかと考えています。アニメであれば俳優の顔を気にする必要はなく、好きに外見を弄れますから。

後追いはして欲しくない

 筆者は「一度、超兵器縛りで日本とゴジラが戦う映画が観たい」と思っていましたので『シン・ゴジラ』には大満足でした。最初の感想を言った時も「初代を超えた」と口走ったぐらいです。ですが、それは監督らが好きに出来たからという環境が大きな要因となっていますので今後、中途半端にリアルなゴジラを作られても正直困ります。ですから、今後登場するアニメーションの『GODZILLA』、レジェンダリー版の『GODZILLA 2』、『GODZILLA vs KONG』でそれとは全く違う、SF的ゴジラ*2や怪獣プロレスといった、別のゴジラが見られることを期待しています。勿論、中途半端なものを出されるのだけは勘弁ですが。

*1:劇中に登場する地中貫通爆弾はMOPと言われ、核を除けば最も強力な爆弾とも評されてます。尚MOPⅡは架空兵器ですがMOP自体は実戦配備されています。

*2:と言ってもゴジラシリーズは超兵器、超能力、オカルトなどで元からSFですが…